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金閣寺や銀閣寺などと並んで観光客の間でも人気の高いこのお寺は、
東山36峰のひとつである標高242メートルの音羽山の中腹にあります。この寺の魅力は、「きよみずさん」と京都の人の間では親しまれているように
開放的で庶民的なところで、特に舞台の上から京都市街を見下ろす景観はみごとです。また、桜や紅葉のころには大勢の見物客で大変な賑わいとな
ります。
昨年2000年は、33年に一度、ご本尊の十一面千手観音が開帳された年でした。3月から12月まで開帳されていたのですが、この期間の本尊参拝者はな
んと142万人だったそうです。観音像は鎌倉時代に造られたようで、国宝級の文化財であることは間違いないのですが、お寺はこの本尊だけは国
の調査さえも断ってきたというものです。
お寺の言い伝えによると、このお寺の由来はこんな感じです。
奈良時代の宝亀9年(778)、延鎮上人が夢のお告げで清泉を求めてこの地にたどり着いたそうです。当時、このあたりは滝の流れるうっそうと
した森でした。彼が、ここに一宇の草庵をむすび観世音菩薩を祀ったのがその起こりとされます。
その後、坂上田村麻呂が身籠もった妻の安産のため鹿の生き血を求めてこの地に入ったところ、読経の声を聞いて、殺生をしようとしている自分に
懺悔の心を芽生えました。そのとき、田村麻呂は延鎮と出会い、深く彼に帰依しました。そして、妻と共に一体の千手観音を作り、また妻の住んで
いた寝殿をこの地に運び入れて、お堂を造ったといいます。
これが、清水寺のはじまりです。
まあ、言い伝えなのでどこまでほんとうの話しかはわかりませんが、今とは違って、創建当時、このあたりは樹木の生い茂る険しい森で、鹿などが
群をなしている狩猟の地であったことは、確かなようです。また京都をとりまく山々のなかにいくつもあった山岳宗教の修行の場のひとつであったはずです。
さらに桓武天皇の命を受けて征夷大将軍となった田村麻呂は、その当時、東北地方に勢力をのばしていた蝦夷(えみし)を朝廷に帰属させるために軍をおこすのですが、このとき田村麻呂は清水の観音さまのご加護を祈り、勝利します。その報謝として境内を広げ、伽藍を造り千手観音像をお祀
りしましたということです。
創建来、観音信仰の興隆により、多くの人の崇敬をあつめ、紫式部、清少納言、和泉式部なども参拝しています。
伽藍は山の中腹にあって、自然の地形を巧みに利用し、自然と人工とがうまく解け合った見事な造形美をみせています。重要文化財に指定されてい
る本堂は桧皮葺きの寝殿造り風の建物で、江戸時代の再建ではありますが、雅な王朝の香りを偲ばせてくれます。
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